バイクとの付き合いを振り返ると、もう40年近く経つ。
最初の関門は、あの「鮫洲試験場」だった。原付の学科試験でまさかの二連敗。たかが原付、されど原付。あのときは悔しかった。問題集を何度もめくりながら、情けなさとやるせなさが入り混じった気分だったのを今でも覚えている。
ようやく免許を取っても、当時のスクーターにはどうも惹かれなかった。足を投げ出して乗るスタイルが、自分にはしっくりこなかったのだ。
そんな中で出会ったのが、HONDAの NS50F。当時唯一の“フルサイズ原付”と呼ばれていたバイクだ。見た目は完全にロードスポーツで、走りも軽快。初めて自分のバイクを手に入れたときのあの感動は、今でも鮮明に覚えている。

そのうち、中型免許が欲しくなった。
当時憧れていたのは SUZUKIのWOLF250。角ばったタンクにシャープなスタイル、そしてあの2スト特有の甲高い排気音。免許を取ったその日の午後には、上野のバイク街へ直行していた。あの頃の上野は、まさにバイクの聖地。新車も中古も所狭しと並び、空気そのものがオイルとガソリンの匂いに包まれていた。

ところが、若さと勢いは紙一重。
人生初の「ハイサイド」を喰らったのもこの頃だ。
コーナーを立ち上がる瞬間にリアがグリップを取り戻し、身体ごと宙に放り投げられた。地面に叩きつけられた瞬間、息が詰まり、腰の痛みがじわじわと広がっていった。幸い骨折はなかったが、「バイクってのは、ほんの一瞬で牙をむく」と痛感した出来事だった。
それでもバイク熱は冷めなかった。
当時、夜中に放送されていた世界グランプリ(WGP)を欠かさず観ていた。なかでも心を奪われたのがアメリカ人ライダー ケビン・シュワンツ(Kevin Schwantz)。彼の乗るSUZUKI RZVγ500は、コーナーのたびに暴れるように動く。それを力技でねじ伏せる走りは、観ているだけで手に汗を握った。
「バイクを操る」というより「闘っている」感じがたまらなかった。気づけば、シュワンツのゼッケン34が自分の中で特別な数字になっていた。
その影響もあって、次に選んだのは SUZUKI RGV250γ(ガンマ)。まさに2ストの傑作だ。

ただ、このバイクでも痛い経験をしている。ある日、カーブの途中に撒かれた砂に気づかず、あっけなくスリップダウン。滑りながら「終わったな」と悟った瞬間、両足に激痛が走った。結果は両足骨折。足首は手術が必要で、医者からは「全治半年」と告げられた。
それでも、リハビリを必死に頑張って3ヶ月で退院。
「またバイクに乗るぞ」という気持ちが、回復の原動力になっていた。
退院後、知り合いの美容師さんから初期型の YAMAHA RZ250 を譲り受けた。白いタンクに赤いストライプ。名車と呼ぶにふさわしいバイクだった。初めて、自分でカラーリングを変更してみたが、族車みたいになったしまった。だが、喜びは長く続かず、ある日、駐車場から忽然と姿を消した。

盗難。あのときの喪失感は、いま思い出しても胸が痛む。
「もうバイクなんか乗るもんか」と一時は本気で思った。
その後、21歳で結婚。家庭を持つと、自然とバイクからは離れていった。
それでも、どこか心の片隅で「またいつか」と思っていた。
そして月日は流れ――気づけば20年以上が経っていた。
50歳を過ぎた頃、通勤で自転車かバイクが必要になり、考えた挙句、 SUZUKIのAddress110(2スト) を手に入れた。

最初は“足代わり”のつもりだったが、いざエンジンをかけた瞬間、あの頃の感覚が一気によみがえった。
軽い車体、独特の排気音、そして2ストらしい鋭い吹け上がり。
だが、ひとたび公道に出てみると、50キロで走っただけで心臓がバクバク。昔は何も感じなかったスピードが、今は恐ろしく感じる。
「あぁ、俺も歳を取ったんだな」と思わず笑ってしまった。
それでも、やっぱりバイクはやめられない。
シュワンツの影響か、どうしても SUZUKI以外には乗る気がしない。
特に2ストのあの「ピーキーな感じ」が恋しくてたまらない。
最近では、ひそかに「限定解除」に挑戦しようと企んでいる。
教習所に通って、あの頃とはまるで違う現代のバイクを体験してみたい。
きっと体力的にも大変だろうし、転倒すれば回復にも時間がかかるだろう。
それでも、あの「エンジンをかける瞬間の高揚感」や「風を切る感覚」は、どんな年齢になっても代えがたいものだ。
バイクに乗る理由を聞かれても、うまく言葉にできない。
ただ、乗っているときだけは、自分が自分でいられる。
エンジン音と風の音だけが聞こえる世界で、余計なことは何も考えずにいられる。
それが、たぶんバイクという乗り物の本質なんだろう。
若い頃のように攻めた走りはもうできないけれど、
ゆっくりと、自分のペースで走る楽しみを味わえる年齢になった。
これからのバイク人生は、焦らず、無理せず、でも情熱はそのままに。
きっとあの頃と同じように、胸が高鳴るはずだ。